霧積温泉湯元 金湯館

〒379-0307 群馬県安中市松井田町坂本1928 霧積温泉 金湯館
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No2. 金湯館秘話 金湯館が現在に至るまで

金湯館が人里離れた国立公園の山中の一軒宿として残っているのには訳があります。

霧積の温泉の発見は西暦1200年代と伝えられています。その当時、霧積山中で、猟師の連れた犬が傷を追い、その犬が水の溜まりに傷口をつけていたところを猟師が不思議に思い、その水を調べたところ、温泉と判明しました。犬が発見した温泉として、暫くは“犬の湯”と呼ばれていました。

それから時代は流れ、“犬の湯”が名を呼び違えられたのか、“入りの湯”とされ、現在では霧の多い土地柄、“霧積温泉”と名を改められています。

山小屋のような建物をした玄関から入った部分が明治時代から現存する母屋です。明治16年に総欅(けやき)造りで建てられました。欅は近場の山から切り出され、現在でも一部の部屋ではその梁をみることができます。(母屋2階の角の1号室という部屋の梁です。この部屋では明治憲法が草案されています。)

当時、明治の人々の背丈に合わせて建てられたため、天井はかなり低く、現在では背の高い方は廊下を歩く際に頭を前屈して歩かれるくらいです。また、昭和48年に改築されるまでの欅(けやき)の廊下は“鴬張り”と揶揄されるほど、人が歩くたびにぎしぎしと音を立てていました。

旅館としての創業は明治17年で、当時は地元の有志数名で夏季だけ共同経営をしておりました。明治初期から霧積山一体には、旅館や別荘など42軒が点在し、軽井沢が開かれる以前の避暑地としてその名を馳せていたようです。伊藤博文はじめとする政治家、勝海舟、尾崎行雄、西郷従道(西郷隆盛の弟)また文化人では与謝野晶子、与謝野鉄幹、幸田露伴、幸田成友(幸田露伴の弟)、山口誓子、川田順、西条八十、岡倉天心、森村誠一、画家の下山観山、山口薫など各界で活躍していた人々が霧積の地を訪れています。

また、この地を外国人にも広めようと、宣教師のショーと言う人物が、ギアマン(ガラス)造りの温泉紹介所を開いていたそうです。当時の霧積温泉全体の宣伝広告文が和文と英文で発行されています。(金湯館にそのコピーがあります)

栄華のあとは。。。。

明治43年の大洪水で山津波が霧積山一体を襲い、金湯館ただ一軒を残し、全ての建物が泥流に呑まれてしまいました。その荒れ果てた金湯館を続けようとしたのが、現在経営をしている佐藤の先祖でした。

幸運にも山深いなかにも関らず、多くのお客さまに支えられて、現在も山の一軒宿として経営をさせていただいております。