明治から続く山の宿には、昭和56年まで電気も電話も通じていませんでした。
明治から昭和11年まではランプだけ、その後はランプと水車による発電、昭和30年からは、ディーゼルエンジンを導入して、自家発電をしておりました。
自家発電ができるようになっても夜は消灯があり、星が降るように間近にみることが毎晩でした。
電話も当時はなく、お客さまからの予約は手紙と里にある出張所の電話を通していただいておりました。その上、車が入れる道もなく、金湯館の現当主の兄が経営する霧積館(昭和46年開業)の駐車場に送迎バスを停め、1キロメートルの山道の“ほいほい坂”を汗をかきかき登って辿りつく宿でした。
食料品はじめ必要な物資は全て、おもに現当主が背負ったり、運搬機を押しながら山道を登りました。想像ができませんが、大きな水車や大型のディーゼルエンジンも担いで運んだのでした。
昭和の初期までは、その先代が軽井沢まで片道3時間半の山道を買出しに行っていました。
昭和56年に林道が金湯館まで開かれると、電柱も建てられ、電話と電気がやってきたのです。やっと文明の利器が金湯館にも登場することになりました。(客室にTVが入ったのも電気が通じてからです。)
昭和50年代でも電気も電話もなかった金湯館の様子は、都会で生活されている方にはおよそ想像がつかないくらい、なんとも現世ではありえない、桃源郷?のような生活をしていたのです。
そんな不便な場所でも、その不便さを好んでこられる方、もちろん山を愛する方に何度も金湯館にお泊まりいただきました。
現在でも、里から11キロメートルほど山奥に入るなか、民家も外灯もありません。喧騒から抜け出して山奥の金湯館に来られると、初めての殆どの方が、第一声で“すごいところだ!”と発せられています。山奥のため、何ひとつ人工的なものがありません。自然を愛で、山を愛される方に素朴な金湯館はお薦めだと思っております。